司馬遼太郎氏の作品はたくさん読んだ。
司馬作品と言えば何でも購入して、本棚にもたくさんあったが、断捨離のため小説などは大分処分した。
この本も処分しようと思ったが、買ったままで読んでなかったようで、読み始めた。
この本の元は、「文藝春秋」の昭和43年1月から12月までに書いたものということで、あとがきの日付も昭和44年1月であった。私はまだ中学生であった。
読んでみたら大変面白かった、というかタメになった。知らなかったことが多くて、いろんな本を読んで何でも知っているつもりだったが、まだまだだった。
この本では12の県や地域が取り上げられていた。
この本は「歴史と風土と人間」ということについて書かれている。人間を理解するときに風土との兼ね合いを考えるが、風土はあてにならないという意見もある。しかし風土はやはりあると司馬氏は言う。司馬氏の言う風土とは風土的気質、性格、思考法といった意味だという。
最初の項が、「高知」である。標題は「竜馬と酒と黒潮と」であった。
最近のNHKの朝の連続ドラマは、牧野富太郎さんややなせたかしさんなど高知県出身者が多かった。もちろん司馬さんが書いたころは昭和40年代であり、関心は幕末などが多いからそれらの方々とは関係ないが、その育った環境、歴史に関係することが多かったように思った。
小項目を抜き出してみると、
「風体野盗に異ならず」
・豊臣時代、大坂へのぼってきた時の長宗我部氏の土佐武士の風体は着ているもの、 帯びているものが異様であったという。のっている馬も土佐駒という小さな種類の馬だったという。
・土佐の古名は「建依別(たけよりわけ)の国」といい、中央人には、南海の地方には、剽悍でたけだけしい人の住む地帯という印象があったようだ。
「黒潮が結ぶ三つの地」
・薩摩、土佐、熊野という黒潮の流れる三つの地帯には日本人の共通したなにかがあるのでは。
・土佐は自然条件がその住民を他所から隔離していた。生物すら限定させていた。(この辺は「らんまん」と関係がありそう)鯉も鯰も三百年前まで棲息していなく、江戸時代に大坂から買い付けて放流したという。
・人間も四国山脈が障壁となって往来を隔絶させていたという。明治以前は愛媛県側に出て、香川県に入り、大坂に行っていたようだ
「土佐弁こそ日本語?」
・土佐人は「づ」と「ず」を区別する。「ぢ」と「じ」を明瞭に発音わけする。江戸期に土佐藩士が江戸へ行き、江戸弁や上方弁よりも土佐弁のほうが日本語として正しいと思った。方言による劣等感を持たなかったばかりか、軽い優越感すら持ったという。昔から土佐人のお国自慢の一つに数えられてきたという。
「物事を明色化する天才」
・土佐人は暢達な日本語を持っていたことが、彼らを議論好きにしたのであろう。
・酒の消費量も多いが、酒による刃傷沙汰も多い。酒飲みで死んでも、非業の死にも好感を持ち、たたえるような明色の感動を持つという。彼らの意識を暗い課題が通過しても、出てくる瞬間には化学変化を起こしたように明るくなっている。
「果てしなく論じ、飲む」
・土佐人は議論を肴に酒を飲む。飲み屋の二階の屏風のかげでは盛んに議論をしている。議論の特徴は、すぐ妥協してまあまあの結末になってしまうものではなく、あくまでも争うためのものである。
「鋭利明快なその言動」
・土佐言葉はきわめて非上方的性格を持ち、ボチボチ的表現が皆無であり、論理性が高いという。
「「黒白を争ってやまず」
・土佐の固有の気質がその方言を性格づけたのだが、同時に土佐人の発想と行動はその言動によって制約され、特徴づけられる。高知市で多い職業が弁護士であったという。法律で黒白をつけることを好む。この好むところが尊王攘夷運動になり、脱藩になり、自由民権運動になったという。土佐はなぜそうなのか。司馬氏は、それは土佐人がその特徴として多量に持っていそうに思える形而上学的な思考能力というものであろうという。
「おそるべき平等思想」
・形而上学的思考能力の例が、「天保庄屋同盟」だという。この同盟の密約は「庄屋とは、天皇から任命された職である。」であり、奇抜極まりない思想を前提としている。天皇というものを論理の中心にすえることによって、農民の形而下的世界が、一君万民の平等思想へ魔術的な化学変化を遂げる。
・この思考法への発動点は、山崎闇斎や本居宣長の影響が土佐では濃かったという。さらに土佐には、藩主・上士と郷士や庄屋で代表される土着土佐人は、互いに人種的違和感さえ持っていた。そのため土佐には潜在的、顕在的抗争が300年間繰り返された。
「風土が生んだ思想の系譜」
・山内侍と言われる上士は、300年の進駐軍であった。ただ、庄屋同盟には思想というだけでなく、戦闘的要素も含まれていた。「庄屋に逃げ込んだ百姓を侍に引き渡すな。」という条項もあり、封建的秩序への挑戦ともいえた。この流れが土佐勤王党の結成を生み、坂本竜馬、大江卓、中江兆民、植木枝盛といった思想人の系譜を編み上げてゆく。
・とはいえそういう思想風土を生むにいたるのは、土佐人の内部のどういう条件によるものなのかは、まだわからない。
「この世を楽しめばよい」
・その思考材料が、土佐人の無神論的あっけらかん性だという。この土地の一種の奇蹟は本願寺宗を受け付けていないということである。日本人が共有している後生欣求的な湿潤な瞑想の感情をもっていないということである。
・土佐人はどんな悲惨な話でも、それを因果応報の暗い宗教的教訓に仕立てることはせず、からりとした俗謡に歌い上げて明色化してしまう。その楽土礼讃性、非瞑想性、余韻嫋嫋の哀切感についての音痴性といったものは、上代日本人を思わせるものがある。土佐人が乾ききった論理的態度で形而上化する作業に肉薄する姿勢を取りうるのにも上記のような理由があるのだろう。
・土佐人には日本人の通弊であるところの情緒過剰がない。乾ききった精神というものがあるようである。中江兆民の「一年有半」を見よ。
・土佐的性格と思考法とその行動は、その後の幕末以降の日本人の歴史に大きく投影し、影響したのだから、その研究は誰かがやってほしい。
かなり抜き書き的に書いてしまったが、土佐人は日本人の中でもきわだった一代表である性格を持つようだ。県民性などというと、関西の大阪、京都、神戸的な見方や関東の千葉、埼玉、横浜など、よく話題になりそうだが、土佐にはもっと奥深いことがあるようだ。
これからも注目していきたい。